漢方の歴史

日本における漢方医学の歴史は、仏教などの大陸文化が導入された6世紀にさかのぼる。7世紀以降は、遣隋使・遣唐使によるその当時の中国との正式交流が開始され、医療文化も大量に我が国に持ち込まれた。701年には新しい政治制度である律令制度に基づいて、大宝律令が施行され,その中で漢~六朝時代の医学書が教科書として指定された。

平安時代には日本独自の文化意識が萌芽し、日本でも医学書が編纂されたが、残念ながら現代には伝わっていない。現存する最古の医書は『医心方』である。この本は平安時代における隋唐医学の集大成であり、中国医学受容の精華であるが、その取捨選択には日本の風土、嗜好が反映されている。


鎌倉時代になると時代の主役は貴族から武士になり、医療の担い手は貴族社会の宮廷医から禅宗の僧医たちへと移行し、医療の対象は貴族中心から一般民衆へも向けられるようになった。この時代から中国からもたらされた漢文の医書を和文に直し、著者独自の見解が加えられ、日本独自の漢方が生まれていった。


室町時代は、当時の中国にあった明朝との交流が活発になった。当時導入された医学は、金元医学を継承したもので、ことに補養を軸とする李東垣、朱丹渓の医学は日本でも李朱医学と称して大いに受けた。これらの流派は江戸時代前期までもっとも隆盛をきわめた。この流派を,その後に興った古方派に対して、後世方派と称している。


17世紀後半、江戸時代中期以降の日本の漢方会は『傷寒論』を最大評価し、そこに医学の理想を求めようとする流派によって体勢が占められるようになった。漢の時代に作られた『傷寒論』の精神に帰れと説くこの流派を古方派と呼ぶ。古方派とされる吉益東洞は、病気はすべて一つの毒に由来し、その毒の所在によって種々の病態が発現すると説き、治療内容は後世方派と異なり攻撃的なものであった。吉益東洞の嗣子、吉益南涯は父の過激ともいえる病理と治療を修正する方向に向かい、気血水学説を立てて病理と治療の説明を行った。この南涯の医説もまた現代漢方に大きな影響を与えている。

処方の有用性を第一義とし、臨床に役立つものならば流派を問わず良所を享受するという柔軟な姿勢をとる和田東郭らの折衷派が現れた。また、蘭学との折衷をはかった華岡青洲は生薬による麻酔剤を開発し、世界初の乳癌摘出術を成功させた。

江戸後期には、多紀元簡、元堅父子をはじめとする江戸医学館によって、漢方古典を文献学的・客観的に解明し、整理しようとした考証学派が登場した。


明治時代には、西洋化・富国強兵を目指す新政府は、漢方医学廃絶の方針を選択した。1895年、第VIII帝国議会において漢医継続願いが否決され、漢方は極端に衰退した。

しかし、ごく一部の人によって民間レベルで伝えられた漢方は、和田啓十郎の『医界之鉄椎』、湯本求真の『皇漢医学』などの著述が引き金の一つとなって、昭和になって次第に脚光を浴びるようになった。その後、多くの賢人たちの努力によって、今日では完全に復権を来たし、現代医療の中で生かされている。


1950年に日本東洋医学会が設立され、1970年代からは、大学や公的研究機関に漢方医学の研究・診療部門が相次いで開設され、漢方の科学的研究も各方面の学会において多数発表されるようになった。

1976年には多くの漢方エキス製剤が薬価基準に収載され、健康保険医療に導入された。さらに、1991年には社団法人日本東洋医学会が日本医学会の加盟学会となった。